今日は、タイトルは短めだが、サブタイトルは長めw
サブタイトル
「動かし続けるエネルギーは与えられないが、
動かすきっかけとなるエネルギーは与えられる」ということを。
動き始めが一番エネルギーが要る。
そして、動き始めてある程度のスピードが付いてくると、
あとは慣性が働くので、動かすエネルギーは少なくて済む。
これは、シフトブレーキを掛けていない車を思い浮かべてください。
TV等でよく力自慢がバスを動かす場面を見かけるけど、
その時に最初はどんだけ押しても動き出さないが、ずっと押していると、
少しずつ動き始めて、一定のスピードを超えるとなんなく動き始める。
習慣、行動も同じだと思う。
やり始めはしんどい、めんどくさい等の気持ちが邪魔して、
なかなか行動に移せない。
しかし、それが習慣となり生活の一部になってくると、
やるのが当たり前になってくるので、
それをするのに邪魔となる気持ち自体が生まれない。
今日の言いたいことはここから。
動き始めるエネルギーは莫大で、
元々その本人にエネルギーの燃料となるものが搭載されていないと、
きっかけを作っても(着火しても)、莫大なエネルギーにはなり得ない。
しかし、その人に燃料があれば、そのきっかけによって
本人の行動のスタートを切らせることもできる。
その上で、手助けできるのはきっかけだけ。
もちろんずっとパートナーとなって、手助けし続けられる関係にあるのであれば、
ずっときっかけを与え続けていけば、本人の行動を続けさせることもできる。
現実的に考えて、それは難しい。
なぜなら、動かし続けるエネルギーは長期で考えると
スタートよりも莫大になる。
そして、それが慣性等で簡単になるのは、
本人が苦にならないというだけで、
ずっとやらされている感を持っているまま続けるのは、
その分のエネルギーも提供し続けなければいけないから難しくなる。
その分のエネルギーも与え続けられますか?
与え続けられても、一人か二人。
それでも良いなら、良い。
しかし、今日言いたいのは、もっと多くの
燃料は積んでるがきっかけだけ足りない人たちに向けて、
きっかけ作りのエネルギーに自分のエネルギーを使っていこうということ。
もちろん、これは人それぞれの考え方があるから強制はしないが、
無理やり続けさせるのに、少人数に莫大なエネルギーを
与え続けるのか、より多くの人にきっかけ作りをするか。
わかりやすく言えば、ガチガチに固めた教育をするのか、
本人のやりたいことを尊重するか。
どちらにも悪い点、良い点あるが、
私は本人の意思を尊重し、きっかけ作りには尽力するが、
あとは本人に任せる方法を採りたい。
人間、自分ごとになって、一旦、動き始めると自分で莫大なエネルギーを
生み出すことができる。
その自分ごとにさせるきっかけ作りをするのに尽力して、
あとは本人に任せる。
わかりにくい話をしてきたかもしれないが、
この逆も言える。
自分が動く、動きたくなるきっかけは巷にありふれている。
そのきっかけ(着火)で莫大なエネルギーを生み出せるように
常に燃料は補充して(その燃料は何か人それぞれだが「信念」「野心」・・)、
動かし続けるエネルギーを提供し続けてくれる人を待つのではなく、
しっかり自分で自分を動かし続けられるようにしていこう~。