誰のためではなく自分のために始める・続ける

ご訪問ありがとうございます。

今日は、何かを始めるとき、するときに誰かのためにと考える人、

誰かに○○と思われるから、○○と思われないようにと考える人向けに。

 

皆さんは、誰かのために何かを始めたことはありますか?

また、誰かの顔をうかがいながら行動をしたことがありますか?

a1180_002857

 

今日の話題でもちろん、社会人として、

人の顔色をうかがう、空気を読むことは最低限必要ですよ。

 

でも、このブログを読んでくれている人はわかってくれると思いますが、

自分のために」というのはあくまで自己実現の分野において、

自分の成長につなげるときにおいて『特に』です。

 

こういうことをいうと絶対?に反論してくる人がいますが、

「自己中心的」とか「自分のことしか考えていない」とか。

 

まぁ、表面的に見れば当然、そうかもしれません。

でも、私は『自分が充足していなければ他を考えられない』と思っているので、

皆さんはそういう意見の一つとして考えてみてくださいね。

 

前者が正しい意見、後者(私)の意見が正しいとは言い切れないので、

多面的な視点で物事を考えてくださいね。

 

そして、ここからが本題。なぜ「自分のために」なのか?

それは、他人のために始める・続けるのであったとしても、

それによって結局自分が充足しませんか?と思うからです。

 

例えば、ボランティアで○○しても、その○○をして誰かに喜んでもらう、

もしくは、自分の気持ちがすっきりして『自分が』充足する。

 

そういう風に「他へ」向けた奉仕は結局、『自分へ』の奉仕になると思いませんか?

誰かに向けたことでも自己満足に繋がる。

 

そして、もう一つ。「皆さん1人ぐらいが○○しても世界は全然変わりません。」

スティーブ・ジョブズさん、孫正義さん、松下幸之助さんクラス、

そういうごく限られた一握りの人はこの限りではないかもしれません。

 

しかし、多くの人は世界への影響力をあまり持ちません。(私も)

最近では、SNS等で個人の発信力は高まりつつありますが、

それでも、世界に影響できるような人はごく一握り。

 

反論のある人も、賛成の人もこういう仮定の元に考えると、

「私たちが何かをやったとしても世界は変わらない」。

 

世界が変わらないのであれば、それをやる意味はあるのか?

誰かのために何かをやったとしても、結局は自己への充足に繋がる。

 

それらの仮定で物事を考えるのであれば、

最初から「自分のため」に始める・続けるのが手っ取り早い。

そう私は考えてしまいます。(皆さんは?)

 

結局は、自分の充足に当てられるのであれば、

最初から『自分のため』に始める・続ける。

 

○○さんが喜んでくれるために○○をする

→『そうなると自分が嬉しいから○○をする

 

○○さんに叱られるのが嫌だから○○をする

→『○○をするのは自己成長に繋がる

 

もちろん、これらは一例ですが、全て『自分のために』と考えれば、

自分ごと」になり、しっかりと主語を意識でき、

行動力も上がっていきますよね。(当事者意識が働くので。)

 

誰かの賞金レースなら動きませんが、

自分に賞金が入ってくるかもしれない、もしくは、

自分が賞金を払わないといけないとなれば動きますよね?

 

そういう風に、「誰かのために」動き始めるのではなく、

自分のため』から始めていきませんか?

関連記事

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください